皆さんはフランス領時代のアルジェリアに存在した「アルジェリア民族解放戦線代表」(これ以降はFLN代表と略す)を知っているだろうか?
今回はフットボールで独立を勝ち取ろうとした男たちの物語について書いていく。
前史
フランス領アルジェリアでサッカーは人気のスポーツであり、中にはフランス本土のクラブに移籍する選手もいた。本土のチームでは高額の給料を受け取ることができ、これによって多くの選手が貧困から脱却することができることができた。特に1930年代のマルセイユは植民地出身の選手が多く所属し黄金期を築いた。
(植民地の選手は2名まで登録が制限されていた)
フランスのクラブ所属するアルジェリア人プロサッカー選手/()は新加入
1947-48:15(0)
1949-50:16(2)
1955-56:19(3)
1956-57:32(15)
1957-58:33(7)
1958-59:19(7)
1960-61:15(3)
1961-62:12)3)
1964-65:9(1)
1969-70:7(1)
Équipe du Front de libération nationale algérien de football -Wikipedia
設立まで
1954年10月10日、フランスからの独立を目指すアルジェリア民族解放戦線が創設。
57年秋、アルジェの戦いの後、解放戦線の指導者たちは独立を推進するため代表チームを設立することを決めた。これは外部の助けなしに自力で発展できることを証明し、国民の士気を上げることを期待しての決断でフットボールを通じアルジェリアの存在を世界にアピールし独立の機運を高めることがこのチームの最重要課題であった。
国際レベルで成功できることを目指すため、アマチュア選手ではなくプロ選手でチームを組織することも決められ、参加する選手は独立のためにすべてを犠牲にする準備ができている愛国者であると後に説明された。(1958年4月15日のプレスリリースより)
FLNはフランスサッカー連盟のアルジェリア支部でディレクターを務めていたモハメド ブーメズラグに選手選出の任務を割り当てた。ブーメズラグは1957年にソ連のモスクワで開催された世界青年学生祭典(世界民主青年連盟と国際学生連盟が不定期に「反帝・反戦・平和・親善・連帯」をスローガンに開催する祭典)に参加した後、フランスのスタッドランスでプレーしていたモハメド マウシュに連絡を取り、秘密裏に準備を進めた。
安全上の理由からまずはFLN代表の資格がある選手を個人的に訪問し友好的な関係を築いてからわずかな道徳的圧力をかけ代表入りを誘った(断った際の報復は全くなく実際に断った選手もいた)
1958年、準備が完了しついにベールを脱ぐ時が来た。
フランス代表は58年のワールドカップに向けて準備を行っており、4月16日にはスイス代表と対戦している。この中のメンバーにいたラヒド メフルフィは軍務に服しておりこれが脱走と受け止められる可能性さえもあった。
12日、12名のアルジェリア人選手がフランスから姿を消しチュニジアのチュニスへ向かった。中には失敗し逮捕された選手(ハッセンチャブリ、後に1年間投獄された)もおり危険な駆けであったが、ほとんどの選手がチュニスに無事に到着し当時の大統領に迎えられ報道された。
これに対しフランスフットボール誌は4日後に4ページの記事を掲載し、選手が所属していたクラブは契約の終了を発表した。FLN代表に合流するということはキャリアを棒にふるうことを意味していた。
そんな中でも勇気ある選手たちが集まりフットボールを用いた独立運動が始まった。
活動
チュニスでは選手兼コーチであるブーメズラグの下でトレーニングが開始され、5月9日にモロッコのクラブ「Fath US」と初の試合を行い2-0で勝利、2日後にはチュニジア代表を6-1で破ったがディフェンダーが不足していた。このことから現地に住んでいた10人の選手が加わった。(後に多くの選手が参加)
FLN代表は財政的な支援を必要としていたが独立を支援する組織によって支援が行われ、チュニスで家具付きのアパートと毎月50000オールドフランが支給された。
5月にFIFAへの加盟を要請したがフランスサッカー連盟の圧力により加盟することはかなわなかった(その代わり代表チームの世界遠征は許可され8回にもわたって遠征が行われた)
主に対戦相手は北アフリカ、アジア、東欧諸国の代表チーム、地域選抜、陸軍で特に代表チーム相手には無敗を誇った(中国の天津選抜に1-5で敗戦した記録が残っている)
1962年7月5日、アルジェリアの独立が達成。エビアン協定により脱走者に対する10年の懲役刑は取り消され、参加していた選手もかつて所属していたクラブに復帰しフランスでプレーした。(6月29日にフランスサッカー連盟がFLN代表に参加していた選手の出場停止処分を解除した)
そしてアルジェリア本土にアルジェリアサッカー連盟が設立され、代表チームの存在意義が消滅し、63年にアルジェリア代表に吸収され消滅した。
独立後
FLN代表に参加していた30名のうち62年にフランスに戻ったのは13名。大多数の選手は問題なく本土のチームに復帰することができた。
そのうち8名は63年に組織されたアルジェリア代表に選ばれている。
参加した選手について
FLN代表に参加した選手の中にはフランス代表に選ばれていてもおかしくなかった選手もいた。
フランス代表のラヒド メフルフィは1958年ワールドカップへの参加を断りFLN代表入りを決断した。独立後はアルジェリア代表の監督を複数回務め、アルジェリアサッカー界ではレジェンド的な存在だ。
まとめ
今回はフットボールを通じてアルジェリアの独立と開放を目指したチームについて書いたが、いかがだっただろうか?
昨今のウクライナ侵攻でスポーツの政治利用に関して議論が重ねられているが私の個人的な意見としては「スポーツと政治は完全に切り離すことはできない、ただ使い方次第で良い結果を生み出すことも可能」というところだろうか。
参考文献
Mohamed Maouche(Football) -Wikipedia
Mohamed Boumezrag – Wikipedi
エビアン協定 – Wikipedia
ALGERIA’S ÉQUIPE FLN: THE MOVEMENT THAT USED FOOTBALL TO FIGHT FOR FREEDOM – thesefootballtimes
FLN Football Team -Wikipedia
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