第二次世界大戦中のブルトン(ブルターニュ)民族主義について

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歴史

前史

第二次世界大戦以前、ブルターニュ(ブルトン人)には反フランス、反植民地主義を掲げる民族主義組織が存在していた。中にはファシズム的な思想を掲げる人間もおり共和国の枠組みの中で小さな火種となっていた。

ドイツによるフランス侵攻、占領前、ブルターニュの民族主義者は「地域主義」、「連邦主義」「政治的独立」の3つに分かれていた。

特に目立っていた政党は1931年に設立された分離主義の極右政党「ブルトン国民党」である(当初はブルトン自治党としてまとまっていたが31年のガンガン大会後に連邦派と独立派に分裂した)

(実は1920年代のヴァイマル共和国時代からアプウェーアとブルトン分離主義者が繋がっていた可能性が近年の研究で明らかとなっている)

39年、第二次世界大戦勃発によりブルトン国民党は対独協力を理由として活動を禁止された。

ヴィシー政権成立後

1940年6月22日、ドイツ国とフランス共和国の間で休戦協定が締結。これと同時にブルトン国民党も復活した。

同年の12月15日に46名のブルトン人がフランス内での行政自治を求める嘆願書がペタンに送られ、翌年3月21日には日刊紙「ラ・ブルターニュ」がブルトン国民党のヤン・フエレによって創設(1789年以前のブルターニュ地方自治権の回復を支持し、ブルターニュ国民党の分離主義政策に反対していた)

ドイツとの協力

ユダヤ人やジプシーはいわゆるウンターメンシュとして差別されたのだがブルトン人はそう見なされることはなかった(モルドレル、レーネをはじめとする一部のケルト主義者は、ブルト人はケルト人の「純粋な」系統であり、「北欧人」としての資質を保持していると主張した)

ブルトン国民党のモルヴァン・ルべスクやアラン・ヒューサフ等のメンバーは対独協力者となったが41年、明確な親独派が分裂。ブルトン国家社会主義労働者運動となった。

自由フランスによるフランス解放後

フランスが解放された後、ブルトン国民党のメンバーは分離主義者ではなく対独協力者として処罰されたが法廷に出廷した人数の割合は15%~16%であり殆どが同じケルト系のアイルランド、ドイツ等へ国外逃亡し裁かれることはなかった。

ブルトン民族主義者が全員対独協力者というわけではなく中には反独パルチザンもいたのだが戦後の第四共和国下ではこれらの事実は無視されてしまい、ブルトン民族主義の政治活動などをナチズムと同義であると主張するようになっていった。


主な組織

ブルトン国民党

前身は1927年に創設されたブルトン自治党であるが前述のとおり31年に分裂し新たにブルトン国民党が設立された(連邦主義者はモルヴァン・マルシャルが中心となりブルターニュ連邦主義者同盟を設立した)

(1911年から14年にブルトン国民党が存在しておりこの復活とも言える)

同年にはブルターニュの対物統合を象徴していたジャン・ブーシェ像がセレスティン・レーネによって爆破されるなど過激的な行動を行うようになった。

第二次世界大戦勃発後は活動を禁止されるもフランス降伏後に復活を果たすとドイツによる支配に積極的に協力、41年には親独派が分裂した。

44年のフランス解放とともに党は姿を消すこととなった。

ベゼン・ペロー(ブルトン親衛隊武装隊)

ベゼン・ペローはブルトン民族主義者の協力者によって設立された小規模の部隊でありレーネの指導の下、民族主義者の民兵組織の職員で構成されていた。

43年に設立されたが活動自体は44年1月に始まりSD(親衛隊保安局、または親衛隊情報局)の下、フランス系ユダヤ人、労働忌避者、レジスタンスのメンバーの逮捕、そして民間人の大量虐殺にも関与した。

しかしノルマンディー上陸作戦の影響でどんどん撤退するようになりドイツ本国の降伏で解体。レーネ等の一部メンバーは逃亡に成功するもその他のメンバーは投獄、処刑された。

この組織の影響もありブルターニュ独立はほぼ叶わぬものとなってしまっている。

ランデルノー特殊部隊

この組織はフランスのレジスタンスと戦うために創設された。18人のドイツ兵と10人のフランス工作員(その中にはブルトン分離主義者や元レジスタンスもいた)で構成されレジスタンスと戦闘を行った。

バガドゥ・ストゥルム

この組織はヤン・グーレとアラン・ロウアンが率いていたブルトン国民党の武装部門であった(所属する人間はベゼン・ペローへの参加が禁止されていた)


参考文献

Breton nationalism and World War II - Wikipedia
Breton National Party - Wikipedia
Bezen Perrot - Wikipedia

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